長い歴史を持つ日本伝統の武道・柔道。オリンピックの正式種目として登録され、日本の柔道は世界のJUDOへと変貌を遂げました。

そんな柔道の長い歴史の中で歴代最強の柔道家は一体誰なのでしょうか?今回はそのような疑問を解決すべく調査し、現段階で最強・もしくはそれに近いような選手を6人リストアップし、紹介させていただきます。

<選考基準>
今回最強の柔道家は誰かを考察するにあたって、階級は考慮しておりません。ものすごく強い軽量級の選手でも、柔道は格闘技ですから、どうしても重量級の選手と戦うと体重差で負けてしまいます。

そのため、本記事では重量級最強=柔道界最強と考えています。今回リストアップされた柔道家6名は重量級でトップクラスの成績を収めた選手たちを紹介させていただいています。

1. 木村政彦さん

「木村の前に木村無く、木村の後に木村無し」といわれた柔道界史上最強の名に最も近い柔道家がこの木村政彦です。

荒々しい柔道スタイルや、破壊力抜群の大外刈り、腕絡みを得意としていたことから「鬼の木村」の異名を持つほど恐れられていました。

幼少期~全日本選手権13連覇

10歳の頃に古流柔術の道場に通い始め、1日5時間を超える猛練習を当時から行っていたそうです。旧制鎮西中学(現在の鎮西高校)に進学し、全国大会を圧倒的な強さで制覇。「九州の怪物」「熊本の怪童」と当時から恐れられていました。

大人になった木村は全日本選手権の前身とも言える日本戦士権を1937年に三連覇達成を皮切りに、1940年に行われた紀元二千六百年奉祝天覧武道大会においても5試合オール一本勝ちという圧倒的な強さを見せつけていました。

1942年、第二次世界大戦が勃発し、木村も兵役となって一時柔道から離れることとなりますが、5年後の1947年に木村は柔道界に復帰し西日本柔道選手権大会優勝。1949年の全日本選手権も優勝し、復帰後も圧倒的な強さを見せつけました。

木村は最終的に全日本選手権を13連覇したという伝説を残しており、最強に最も近いといわれている一人です。

エリオ・グレイシーとの決闘

また、木村は日本の柔術がブラジルで独自に発展した「ブラジリアン柔術」の総帥、エリオ・グレイシーとの決闘も行いました。

この戦いで木村はエリオの腕を「腕絡み」でへし折り、勝利しました。このことから負けたブラジリアン柔術は、木村への尊敬の意を込めて「腕絡み(アームロック)」を「キムラロック」と名称を変更しました。

その後木村はプロレスラーへと転向し、力道山との試合を行います。これに敗れたことから講道館をはじめとする柔道界は木村の存在を柔道界から抹消しました。このことから最強に最も近かった柔道家・木村の名を知るものは当時はほとんどいなくなりました。

しかし2011年に出版された「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(増田俊也著、新潮社刊)がベストセラーとなり、木村の名前が全国に知られるようになりました。

木村政彦の得意技

木村政彦の得意技は大外刈りと腕絡みですが、木村は高専柔道(寝技主体の柔道)の経験を持つことから、特に寝技には絶対の自信があったようです。

現代の柔道の寝技でよく使われている、上位の裾を相手の腕に巻き付けて固定させるテクニックなども木村が考案しています。

2. 山下泰裕さん

山下泰裕は1984年ロサンゼルスオリンピック金メダリスト、全日本選手権9連覇、世界選手権1979年パリ95kg超級金、1981年マーストリヒト95kg超級金、無差別級金、1983年モスクワ95kg超級金、公式戦203連勝、対外国人戦無敗という驚異的な成績を収めた柔道家です。

幼少期~インターハイ優勝

幼少期から体が大きかった山下はわんぱく少年でいたずらや喧嘩に明け暮れていましたが、小学三年生の時に藤壺道場に入門し、柔道を始めることになりました。

小学6年生の時に初めて県大会で優勝し、中学は名門の熊本市立藤園中学校に入学します。この時にはすでに体重は100kg近くあったそうで、2年生、3年生の時には団体戦で全国大会優勝を果たします。

輝かしい成績を収めていたことから、高校進学にあたり全国からスカウトを受けることとなりますが「東京に出るのは大学からでいい」との本人の想いもあり、九州学院高校に進学することとなります。

1年生で史上初のインターハイ優勝を果たしたものの、2年生のインターハイでは3位に終わってしまいます。九州では練習相手が中々いないことから、2年生の2学期に元々スカウトの話があった神奈川県の東海大相模高校に転校することとなりました。この転校が功を期して、3年生では再びインターハイで優勝を飾ることができました。

東海大学入学~現役引退

高校卒業後は東海大学へ進学。

全日本学生大会の無差別級を1年生にして制覇という史上初の快挙を成し遂げると、全日本新人体重別選手権大会優勝、スペインのマドリードで開催された世界ジュニア選手権でオール一本勝ちで優勝と勢いに乗ったまま、大学2年生で全日本選手権優勝という史上最年少優勝を果たします。

全日本学生選手権は2位となってしまいますが、この敗戦が最後の敗戦となり、ここから203連勝することになります。しかし、慢性の怪我が治らず、1985年6月17日に28歳という若さで引退を決断しました。

山下泰裕の得意技

山下の得意技は立ち技から寝技への連絡技を得意としていました。主な得意パターンとしては、大外刈りから大内刈り、投げからの横四方固めのパターンが多いように感じます。

寝技自体もかなり強かったそうで、小川直也が歯が立たずに「なんでこの人が代表として出ないんだろう?」と疑問に思ったというエピソードが残っていたり、井上康生も専門誌の取材で「いまでも寝技は山下先生が一番強いと思います」と答えているほどです。

3. 斉藤仁さん

斉藤仁はロサンゼルスオリンピック金メダリスト、ソウルオリンピック金メダリストです。

幼少期~インターハイ制覇

小学生の頃からすでに体が大きく相撲に取り組んでいました。

TBS系テレビドラマ「柔道一直線」にて、主人公が大きな相手を投げ飛ばしたりしている光景を見て、「柔道をやったらできなかったこともできるようになるんじゃないか」との思いで柔道を始めます。

中学生までは、今まで取り組んでいた相撲と柔道を掛け持ちで稽古に励んでいました。高校生になると名門の国士舘高校へ入学。

高校二年生の夏にインターハイで東京勢初優勝に導くと、三年生でもインターハイの団体戦で優勝し二連覇を飾り、個人でも決勝で敗れはしたものの準優勝し、その名を全国に轟かせることとなりました。

国士舘大学~ソウルオリンピック出場

国士舘大学へ進学し、一年生ながら全日本学生選手権の決勝戦に進出し、最大のライバルとなる山下泰裕と初対戦を行います。

結果抑え込まれてしまい2位となったものの、その活躍振りから周囲からは「山下二世」と呼ばれるようになりました。

大学時代には全日本新人体重別選手権の重量級を三連覇、1982年に全日本学生体重別選手権を制覇という輝かしい結果を残します。卒業後は国士舘大学の体育学部助手という形で大学に残ることとなり、国士舘大学で練習を続けました。

全日本選手権ではまたもや山下泰裕に敗れ二位に終わったものの、その後のモスクワ世界選手権では無差別級で優勝という快挙を成し遂げます。

しかし、翌年の全日本選手権でも山下泰裕に敗れたことから「自分は本当の世界一ではない」と、山下泰裕に勝つために努力を続けることとなりますが、一度も勝つことはできず、山下は引退してしまいました。

その際の心境を山下は「本当はロス五輪の後で引退しようと思っていたが、最後は斉藤の挑戦を受けてから引退しようと考え直した」と発言しており、その言葉に斉藤は「こんな人に出会えた自分は幸せ」と感激しました。

その後斉藤は怪我で苦しんだものの、ソウルオリンピックに出場。

斉藤が出場する重量級以外の他の日本代表選手全員金メダルを逃しており、東京五輪から続く日本柔道の金メダル連続獲得記録が斉藤に託されるという苦しい状況の中、斉藤は見事優勝し、オリンピック金メダルを獲得。日本柔道金メダル連続獲得記録を無事に継続させることに成功しました。

現役引退~死去

その後現役を引退した斉藤は国士舘大学柔道部の監督を務め、1992年より山下泰裕率いる全日本代表の重量級担当コーチを務めるなど、柔道界に多く貢献することとなります。

しかし、2013年に肝内胆管がんが判明し、闘病生活をしながらの指導でしたが2015年1月20日、大阪府東大阪市内の市立病院にて、その人生に幕をおろすこととなりました。享年54歳でした。

斉藤仁の得意技

斉藤の得意技は相撲で培ったフィジカルの強さを存分に発揮した「体落とし」です。常に前にプレッシャーをかけ続け、相手が押し返してきたところに仕掛けることを得意としていました。

以上が最強の柔道家の名にもっとも近い柔道家の紹介でした。ですが、まだまだ強い選手はたくさんいます。解説した選手3人に加えてもう3人ほど彼らに近い最強クラスの選手をご紹介させていただきます。

4. 石井慧さん

先程の斉藤仁が監督時代の教え子の石井慧です。彼も国士舘大学で血のにじむような努力をし、北京オリンピックで金メダルを獲得しました。

かなりの練習の虫で、斉藤仁が「もうこのくらいで練習やめておけよ」と止めると、石井は「まだやらせてください」と泣きながら訴えたいうエピソードは柔道界では有名ですね。

また、最強選手の一人目に挙げた木村政彦の弟子の岩釣兼生は「木村の鬼の柔道を継ぐことができるのはあいつしかいない。絶対に勝ってやるという、そのための努力の量と質が人とは違う」と発言したこともありました。

彼は柔道だけの練習にはとどまらず、レスリングやブラジリアン柔術の道場にも1人で出かけて出稽古に行き、他の格闘技のノウハウを積極的に取り入れており、北京オリンピックで優勝してからは「オリンピックは自分にとって踏み台」として、柔道を引退し総合格闘家としての一歩を踏み出すことになります。

現在も総合格闘家として主に海外で活躍中で、世界最高峰の総合格闘技団体であるUFCへの出場への期待が徐々に高まってきています。

石井慧の得意技

石井慧の得意技は大内刈りが有名で、世界最高レベルの切れ味だといわれています。しかし、石井慧の本当のすごさは「クレバーな試合運び」で、自分が不利な試合展開になることがありません。

全日本選手権で優勝した際には、あまりにも手堅い戦法でブーイングを浴びる一幕がありました。その際に石井は「美しい柔道って言いますが柔道は芸術ですか?そんなに美しいものを求めるのなら体操でもやればいい」と発言したこともありました。

通常、柔道の国際ルールは指導などの反則ポイントが多く飛び交うといわれています。ですが、石井は北京オリンピックでは一回戦から優勝までの5試合で、一度も反則ポイントを取ることなく優勝しているのです。

このように試合運びには天性の素質があり、あまりにもクレバーな戦い方なので、見ている人からすればあまり面白くはないといわれることも少なくありません。

しかし、勝つためにどんなことでもやるという石井の姿勢はすさまじく、最強に近い男の一人だといえます。この戦い方は柔道を引退して総合格闘技に転向した現在も変わることなく、自分のスタイルを一貫して行っています。

5. 原沢久喜さん

2018年の全日本選手権でオール一本勝ちし優勝したことから、現役で最強に近いのはこの原沢久喜ではないでしょうか。

リオデジャネイロオリンピックでは惜しくも銀メダルに終わってしまいましたが、今後の活躍が期待されます。

彼もかなりの練習の虫で、練習のし過ぎで「オーバートレーニング症候群」に陥ってしまった経緯もあります。

原沢久喜の得意技

原沢久喜の得意技は身長191cmの長身から繰り出される大外刈りと内股です。

また、その高身長のおかげで懐が深く高い防御力や、延長戦に入っても試合開始の時と同じようなパフォーマンスを出し続けることができるスタミナも特徴的です。

6. テディ・リネールさん

テディ・リネールは現在柔道人口が日本の柔道人口の4倍であるフランスの柔道家です。

2メートルを超える身長と129kgの巨体を持ち、現在世界選手権を10大会連続優勝、100kg超級を9連覇中で現在公式戦144連勝という、最近の記録の中では驚異的ともいえる成績を収め続けいている柔道家です。

野村忠宏と井上康生に憧れて柔道を始め、18歳の史上最年少で世界選手権を制覇しました。

2008年の北京オリンピックでは銅メダルに終わったものの、2012年のロンドンオリンピックで金メダルを獲得。2016年のリオオリンピックでも、先ほど解説させていただいた原沢久喜との死闘の末、金メダルを獲得しています。現役の世界の柔道家の中で最も最強に近い男といえるのではないでしょうか。

テディ・リネールの得意技

テディ・リネールの得意技は長身の選手が得意であることが多い大外刈り、内股、隅返しです。

204cmの高身長なのでリーチも長く、懐に入りづらいので防御力も抜群に高く、さらに129kgの巨体にもかかわらず、身軽なフットワークで対戦相手の的を絞らせないようにしていることも特徴的です。

また、彼もクレバーな試合戦術を行うことで有名で、勝つためには手段を選びません。リオオリンピックの決勝戦の原沢久喜戦では試合開始早々に原沢に反則ポイントである「指導」を宣告されたため、リネールはそのまま逃げ切るために「投げる気がない」柔道で手堅く勝利しましたが、一本を求める柔道界では議論が起こる事態となりました。

まとめ

柔道界最強といわれる選手たちを紹介させていただきました。他にも様々な魅力的な柔道家はたくさんいます。

他の柔道家の事も調べていただけると、より柔道の魅力に取りつかれることと思います。最後までお読みいただきありがとうございました。